30代、ギャンブル依存症が書くブログ

20代で多くのものを失った。30代では全てを失う気がする。

「どんな時にギャンブルをしたいと思いますか?」という質問。

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数か月前、人生で初めて精神科医を受診した時、「どんな時にギャンブルをしたいと思いますか?」という質問を先生から投げかけられました。この質問は、依存症用語で「トリガー(引き金)」と呼ばれるものを探る質問だと思います。シンプルな質問ですが、私はそのシンプルな質問を正確に答えることが出来なかったのです。

現に私の回答は、「ギャンブルなんてしたいと思ってしてません。」と揚げ足を取っているかのような、まるでギャンブル自体に責任があると受け止められるような、先生を困らせるような言葉だったのです。

この記事では、ギャンブル依存症の私がなぜそう答えたのか、改めて自分自身を振り返ってみようと思います。

 

さて、先生に向けて私の口から次の出た言葉は、

「ここ数年間はとくに、ギャンブルなんてしたくなかったです。」

という言葉です。私はギャンブルに対していつもネガティブな感情を持っているのにも関わらず、ギャンブルをスタートさせていました。(正確にいうと、スタートさせていたと「思っていた」ですが。)

ギャンブルに対してのネガティブな感情の中身はこのような感じです。

「どうせ負けるし行きたくない」

「またお金が無くなるんだよな」

「やるしかない」

「ギャンブルなんて本当はなくなれば良いのに」

・・・そんな事を頭の中で考えながらも、次の瞬間には息をするようにギャンブルをしていました。そうしていざギャンブルをしてしまえば、それなりに一喜一憂する事になるという、まさにギャンブルに生かされている状態だったのです。

こうしたギャンブルの結果の多くは、当然ながら経済的な損失を負う事になり、はらわたが煮えくり返るような負の感情を抱く事になります。次に来るのは自己嫌悪なのですが、それでも、取り返すためにはギャンブルをしなければいけない、というループに陥ります。こうして、基本的に毎日が苦しかった記憶が蘇ります。ギャンブルをやり始めた頃とは打って変わって、特にここ数年はそんな苦しい状況の中でギャンブルをしていたのです。

この理由は今考えればシンプルで、借金の問題が自分の中で深刻化していたからです。そして深刻化した借金についての問題を、いつも自分の中でかき消す作業に忙殺されていて、その作業の一部がまさにギャンブル行動だったこと、これもまた事実です。

さて、こうした先生への答えは決して、先生を困らせてやろうとかギャンブルに対しての当てつけのような感覚を持って答えたのではありません(当てつけは少しあったかもしれないですが・・・。)先生からの質問に対して、心の底から素直に出てきたものだったと記憶しています。そしてこれは、自己主張がそんなに得意ではない私にとっての、一種のSOSだったことに気が付きました。

「ギャンブルをする時、気分とかそういうものには左右されていません。」

「私は息を吸うようにギャンブルをしていました。」

「私は完全に依存症という病気です。助けて下さい。」

「ギャンブルは私を支配していて、何とかしたいし何とかしてほしいです。」

「一刻も早く病気を治したい、だから病院にきているんです。」

 

これらが私が先生に向けて発信したSOSの主な中身です。実際に口にしたわけではありませんが、今となればとんちな回答をした私の言葉の真意は、おそらくこうだったのだと振り返ることが出来ました。

こうして私は、先生との会話を正常に出来ていなかったわけなのですが、先生の聞いた「どんな時にギャンブルをしたいのか?」というトリガーを探る質問は、私にとってとても重要でした。これは当然で、ある行動を辞めようとしているのに、自分がなぜその行動をするかを知っていなければ、対処しようもありません。私はといえば、単に先生へSOSを発していただけで、これでは解決には向かわないのは明白です。

遠回りはしましたが、こうした事に気付いてからトリガーを探るため、自己内省しました。そこから出てきた私の主なトリガーはこれです。

 

「まとまったお金が財布に入っている時」

「父親と上手く折りわなかった時」

「借金の返済の現実を考えた時」

Youtubeでギャンブル系の動画を見た時」

 

主にこの4つです。これらは、ギャンブル依存症者にとってはよくある答えだと思います。このよくある答えですが、私自身で自覚する作業がとても重要だったと気付きます。こうしたトリガーがいかに私をギャンブル行動に導くか。何となく自覚するのではなくて、自分の敗因としてキッチリ受け止めて自覚する事が大切だったのです。

早く治したいという焦り、病院にまで行っているのだから何とかして欲しいという強い願い、こうした類の感情が合わさって、トリガーを探る重要な質問の意味を、私自身の手によって霞めてしまっていたのです。

 

―グループワークにて、「ギャンブルをしないデメリットは何でしょう?」という質問がありました。これはまさに、自分自身のギャンブル行動=現実にきちんと対峙していなければ答えが出づらい質問です。私はこの質問に対して、ギャンブルなんて私にとって100%の悪魔なのだから、「そんなものはあるわけが無いだろう」と考え、答えていました。

しかし、自分自身の行動を振り返り、ギャンブルをしていない時の自分を想像してみると

「日々、退屈に思う」

「(親に資金管理をしてもらっている事から)資金の制約がある事を自分自身がよく分かっているので、、ギャンブルが出来ない未来を想像すると日々つまらないと感じてしまう」

という答えが浮かびあがりました。

こうして、ギャンブルをしないデメリットすら私にとって存在していたのです。―

 

病院に受診しようと思うくらい、自分が依存症者かもしれないと考えている人であれば、ギャンブルをする自分自身、またはギャンブルという存在そのものに対して、良い感情を持っていることは少ないはずです。むしろ、趣味嗜好を超え生活に浸食してくる悪魔のような存在、と考えている人の方が多いはずです。

まったく同じように、病院に初めて受診した頃の私は、ギャンブルの事をひたすらに悪魔のような存在だと考えていました。悪魔のような存在になぜ負けるのか、なぜ逃げられないのかあるいは戦えないのか、そうした考えが頭の中をぐるぐる回り、自己嫌悪を繰り返し、すっかり心が打ちひしがれている状態でした。そしてこうした感情が私の中の冷静さや自覚する力を消し去って、シンプルな質問に答える事すら困難にさせていたのです。その結果は先ほども書いた通り、単にSOSを発することでした。

こうした流れを踏み遠回りをしてしまいましたが、私は自分自身のトリガーを自覚する作業がとても大切だった、ということに気付きました。

私にとってギャンブル依存は、「何かやってみれば変わる事ができる」では到底回復できない病気だったのです。病院を行く決断をし、先生にSOSを出してみたところで、病気が治るわけがなかった・・・「病院に行けば治るかも」「ブログを書けば治るかも」「ギャンブルともっと向かえば治るかも」・・・色々とやってみたものの、ギャンブルの前ではいつでも無力でした。

翻ってトリガーを自覚することは、原因を断つ努力へと繋がります。私の場合は、現金をなるべく持たないようにして、ギャンブルに近付かない工夫をする事ができます。借金は毎月いくら必要か、現金でいくら用意しておけばよいのか、きちんと計算する必要性も出てきます。そもそも借金の返済を引き落としにしていれば、現金を物理的に所有する可能性も低くなることにも気づきます。私は、自分の中にあるトリガーを自覚し、一つ一つ地道に生活改善をしていくこと、これこそが実は一番近い道なのだと考えを改めることとなりました。

 

今回の記事では、「どんな時にギャンブルをしたいと思いますか?」という簡単な答えすらまともに答えられなかった、私の反省文でもあります。ギャンブル依存症の回復は、私にとっては「何かやってみれば変わる」では出来ませんでした。一つ一つの原因を探り、対処法を見つけ、対処法を実行することでしか不可能だったのです。取り組むための姿勢を保ち日々、進展を感じることで一歩一歩進んでいきます。

 

こうした私の心の中の進展は、良い影響を私自身に与えてくれているような気がしています。ここ一か月以内で「目の前の小さなことを、とにかく大事にしていこう」と日々感じるようになりました。周りにいる人を中心に、小銭でも、掃除でも、洗濯でも洗い物でも、なにか打ち立てた小さな目標でも、とにかくなんでも良いから目は逸らさず、一つ一つを大事に向き合おうとしてきました。

こうした全ての行動がギャンブル依存症の回復に繋がるわけではありませんが、ギャンブル優先で生きてきた人生を少しずつ変化させていきたいのです。そんな日々を積み上げていく行動は、トリガーと向き合う私の姿勢と共鳴してくれるのだと信じているのです。

 

これがギャンブル依存症者が感じている苦しみです。

今回の記事では、ギャンブル依存症者が感じてしまう苦しみについて書いていこうと思います。ギャンブル依存症については、多くの誤解があると感じざるを得ません。理解されていないというより、誤解されている部分が沢山あると思うのです。私自身、それは一般的な感覚からすれば仕方ないと思う一方で、その誤解が依存症という病気の発見や治療を妨げているとしたら、それは問題だとも考えています。

特に、もしも誰かにとって大切な人が依存症が疑われる場合、そうした誤解から人間性を疑う事に繋がったり、ある種の諦めに繋がるような事だけは避けて欲しいのです。

依存症の私自身、そうした悲劇が起こって欲しくありませんし、一人でも多くの依存症が救われるべきだと感じます。少しでもこの記事が参考になればと思います。

 

私は最近’X’(旧Twitter)をよく見るようになりました。

ギャンブル禁止を掲げるユーザーさんの言葉がめちゃめちゃ励みになるし、ギャンブル依存症について真正面から考え、役立つ情報を発信していたり、中にはYotube活動をしておられる方もいらっしゃいます。Xについては使い方により良くも悪くもなりそうなものなのですが、こと依存症に悩む人たちのやり取りを見ていると、すごく良い空間に満ち溢れていると感じます。自分もなるべくネガティブな言葉を投げないよう、なにかとツイートしている次第です。

その中でも、ギャンブル依存症について誤解や偏見を持つ言葉もそれなりに見かけます。私自身、それを見て一喜一憂するわけではなくて、むしろ理解されなくて当たり前という感情すら少しあるのですが、先日気になった言葉があったので抜粋してみます。

ギャンブル依存症について、ものや人といった他者のせいにすると依存する。悪いのはあくまで依存症当事者。とにかく悪いのはあなた。ものや人のせいにしたらいけないよ。」

(私がすこし要約しています。)

 

私には心当たりがあります。

「パチンコ台のせいにする、パチンコ屋のせいにする、パチンコ屋の店員のせいにする、周りで打っている人のせいにする、騎手のせいにする、新聞のせいにする」などなど。

私にとってはむしろ、負けた場合の常套句です。こうやって他者のせいにすることは、重度の依存症となった今の私ですらあります。そうして自分の中のイライラした感情が抑えきれなくなり、叫びたくなるような状況になるのです。というか車で何度も叫んだこともあります。

でも、私はこうした姿が依存症者の本当の姿を現しているとは考えません。

ここからは、むしろ世の中の大多数の人が賛同しそうなこのツイートが、なぜ間違いであるかを書いていきます。

誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり、あるいは社会のせいにしたり、といった事は、ある程度ギャンブルをする人にとって身近な行動と言えるでしょう。特に、負けが込んでいる状況であるとそうした行動に拍車をかけるでしょう。分かりやすいのがGoogleの口コミです。例えば近くのパチンコ屋さんの名前を検索すれば、八つ当たりともとれるこうした行動に、すぐに触れ合う事ができるでしょう。

こうして依存症者に限らず、ギャンブルに頻繁に触れ合う多くの人はこうした感情を抱く事は想像に難くないと思います。

ただ、こうした感情の動きはただの一過性のものに過ぎません。依存症者にとっては特にそうなのです。

なぜなら、すぐに強烈な自己嫌悪が襲ってくるからです。「またギャンブルでお金を使ってしまった」「また時間をお金を無駄にした」「なんでギャンブルを辞められないのだろう」「使ってはいけないお金だったのに、何で使ってしまったのだろう」「本当に自分はクズだ」 何度も何度もそうやって考えてしまうのです。本当に何度も何度も、何度もです。悔しくて、情けなくて、最終的にはいつも自分を責めてしまうのです。

経済的な環境によっては、もっと悲惨な場合もあるでしょう。つまり、こんな自分はもう死ぬしかないとか、犯罪でもするしかない、といった飛躍した考えに至るケースもあるでしょう。

そしてこれらの事がまさに、ギャンブル依存症者が感じる苦しみだと思うのです。パチンコ台やパチンコ屋さん、パチンコ屋さんの店員や下手をこいた騎手にいら立つ感情は誰にでもあります。でも、そんな事はどうでも良く、自分自身に苦しんでいる事が大きな問題であると思うのです。

そうした人を目の前にして「人のせいにしているあなたが悪いのです」と言えるでしょうか?悪いことは百も承知していて、その上で自分自身を責め続けているのです。

 

―「ギャンブル依存症は本人の責任か?」という設問に対して、「そう思う」「強くそう思う」の割合がとても高かった、というのはある国民調査の結果です。依存症の私自身、「そう思う」にチェックをいれるでしょう。―

 

ギャンブル依存症者は、見た目も普通であるし、仕事も普通にしているし、とにかく普通を装う方も多いです。そして、ことギャンブルに関して口から出る言葉には、ウソも混じってくることもあります。

「ギャンブルばかりするし、ギャンブルの悪口ばかりよく言っているヤツ」「ウソをついているヤツ」・・・こうしたギャンブル好きは沢山いると思います。そして、周りの人の多くはここでブレーキをかけてしまう事になるでしょう・・・。私はそうした状況が普通だとも考えています。依存症者自身が誤解されても仕方ないような言動を取っている可能性があることもまた事実です。

何度も書きますが、「ギャンブルに溺れているなんて情けない」という感覚が至って普通です。そもそも、それが世間というものであるし、依存症当事者の私自身もそれを受け入れています。

でも、もしあなたの近くに依存症者と疑われる方がいらっしゃるのであれば、表面的な部分より先に、少しでも踏み込んでみて欲しい、という思いが私にはあります。相手が大事なひとであればあるほど、すこしだけ踏み込んでみて欲しいのです。本当の意味で苦しんでいる可能性がある事を、少しでも疑ってみて欲しいのです。

 

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(以前書いた私の記事です。ギャンブル狂いの人は、本当の意味で苦しんでいる可能性が高いと私は考えています。)

 

ギャンブル依存症は、台や店、騎手に対して苦しむ病気ではありません。むしろ、自分自身に苦しむ病気なのだと私は考えています。こうした誤解が少しでも解けると同時に、だれかにとって大切な人が一人でも救われて欲しいという思いです。

この記事が少しでも多くの人に、参考になる事を祈っています。

 

 

最近の気付き(結局ギャンブルを継続しています)

最近の自分自身の思考はこれです。

 

「ブログを綴っていけば治る。」

「病院に行けば治る。」

「グループワークをしてみれば治る。」

「ギャンブル・ギャンブル依存についての知恵を付ければ、バカらしくなって治る。」

 

そんな風な考えが先行している状態の中で、「ギャンブルなんてするものか!」という強い意志を忘れ去っていて、結局ギャンブルをしてしまう。そしていつも通りギャンブルに負け、打ちひしがれてしまう。本末転倒とはこのことで、結局ギャンブルをし続けていたし、状況も少しずつ悪化しているような気がします。

私の場合、ギャンブルに限らず「何か動けば変わるだろう」という衝動的なタイプで、とにかく色々やってみる事に価値があると考えていました。(このブログもそうです)

その結果として、ギャンブル依存を乗り超えてやろうと思っていたんですね。

でも、そんな事で治すのは無理ですよね。

少し考えれば分かる事なのに、つくづく自分はバカなのだと思います。

ギャンブル依存症は「意思の問題では治らない病気」と言われますが、やはり先立つものは絶対に辞めて克服してやるんだ、という「強い意志」「立志」だと改めて思います。現実を見てもやっぱり逃げたくなるし、誰かに自白したとしてもただスタートラインに立ったというだけ。ましてや資金のサポートでもあろうものなら、逆走する可能性だってあるのだと思います。

結局は、ギャンブルを強い意思で断ち、日々人間らしく生きていきる中で、万が一スリップしてしまった時には正直に反省する、これで良いのだと思います。シンプルです。辞め続ける過程で治療を進めていくのであって、治療をして治るわけではないんですね。

私がこうして気付きを得られたのは、Twitterで「禁ギャンブル〇〇日目」とカウントダウンしている方をよく見かけるからだと思います。やっぱり意思、志が大事なのだと改めて考えさせられることになりました。日々精進です。

 

さて、ここ最近の私はギャンブル・ギャンブル依存についてそれなりに調べることができました。これらは、またブログ等でアウトプットしていこうと思っています。また、自分自身ずっと心待ちにしていたグループワークもいよいよ始まりそうです。そして、紹介状を書いて頂いた、次の病院での受診も今月中に始まります。

 

行動してみる事は決して悪い事ではないはず。繰り返しにはなるけれど、そうしたプロセスに入った時に、辞めるんだ、という意思を持ち続けることが大事になると考えました。ギャンブルを断てるよう、一つ一つ頑張っていきたいと思います。

 

Twitter始めました。

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「ギャンブル依存症」という本を読んで。

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田中紀子さん著書の「ギャンブル依存症」という新書を読みました。

全体的な感想として、ギャンブル依存症当人とってとにかく勇気づけられる本だと思いました。「いつか治る」「治さなければいけない病気なのだ」と搔き立てられる良い本です。

本書を章ごとに区切って、私なりに紹介していきます。

 

第一章では、ギャンブル依存症がどういった病気なのか、いかに身近であるかという事が書かれています。ギャンブル依存症はいまや、成人の約20人に1人と言われていて、いかにギャンブル問題が深刻なのか、という事が述べられています。また、そもそもギャンブル依存症がどういった病気であるかを整理されています。本書に書かれている、ギャンブル依存症と定義される人の特徴がそのままの私で、立派なギャンブル依存症なのだと改めて認識する事になりました。

第二章では、日本で起こった犯罪が10件程掲載されています。いずれもギャンブル依存に端を発した犯罪です。もちろん、犯罪行為は決して許されるわけではありませんが、ギャンブル依存症者として、犯人の心情を少し理解することはできました。私自身、当然ながら犯罪なんて無縁だと考えてます。でも、このままギャンブル依存症の人生を歩んでいけば、いつどうなるか分からないという危機感を持ちました。今は独り身な私で、基本的に自分の資金の事だけを考えれば良い身です。でも、両親は私よりも先に死にます。兄弟や兄弟家族との関係も、色々と変わってくるかもしれません。もしかしたら、こんな私でも結婚して家族を持ちたいと思うかもしれません。色んな人間関係の変化をしていく中で、今のままギャンブル依存を背負っていると、どんな悪影響に波及していくか想像できない部分もあります。恐怖です。

そういえば少し前に、ギャンブルに負けた腹いせで車が歩行者に突っ込んだ、という事件がありました。犯人は、20代の若者でした。犯罪行為に対して同情の余地はないのかもしれませんが、心情を一部理解する事ができます。一言で言えば報道された通り、「負けた腹いせ」になるのでしょうが、自身の借金問題やギャンブルに対する社会への深い恨みが募った結果なのだと思います。そうした痛みは、私自身も犯人と同じように感じている部分かもしれません。

第三章では、ギャンブルがこんなにも身近な日本において、国内のギャンブル依存症対策がいかに脆弱であるか書かれています。精神科医の対応や受け入れ機関等の問題に代表されるように、ギャンブル依存症に対しての、社会全体の認識の甘さが詳細に記されています。

第四章では、「ギャンブル依存症」という病気がどんな病気であるのか、そして周りにいる人たちはどう向き合えば良いのかについて、詳しく書かれています。

依存症というのは周りのサポートがないと、回復が難しい病気であることを痛感させられました。また、そのサポートの方法論も重要であることが記されています。

 

以上、大まかに紹介してみました。

日本社会に点在しているギャンブル、そしてギャンブル依存症問題の全体像を明瞭に把握できるため、ギャンブル依存症について考える際に役立つと思います。

上述しましたが、ギャンブルにまつわる犯罪がいくつか紹介されており、これらは大変参考になるものでした(と同時にショッキングでもありましたが・・・)

私もこの先、きっかけ一つかもしれないな、と危機感を持つ事例もありました。明日は我が身、という感覚です。

 

依存症当事者にとっても、その家族に方にとっても大変参考になる内容です。ギャンブル依存症を知るにはまず、読んでいただきたい本です。

人間らしく生きる。

ギャンブル依存症にとって、一番の大きな問題は経済的な問題かと思います。依存症に陥ってしまうと、資金の制約を超えてギャンブルをします。その結果として、周辺にいる人や社会に対して迷惑を掛けることになるでしょう。自走していく事がままならなくなってしまうのです。

ところが迷惑を掛けながらでも生きていける、それが今の日本の社会です。頼れる家族や知り合いが身近にいる可能性が高いのも、平和な日本の社会だからこそです。それに、ライフラインもそんなに簡単には止まらない仕組みになっています。(これに対する副作用は、ギャンブル依存症がなかなか表面化しづらい、かつしかるべき治療を行える機関が少ないという事ではないでしょうか)

反面、周りの人へ迷惑をかける行為は、依存症の当人からしても苦しい事です。開き直っている人は少ないと思いますし、痛みを伴いながらも、それでもギャンブルを辞めれないのです。

さらに、こうした資金の援助はただの延命に過ぎません。本人はおろか周囲までも次第に疲弊していき、いつか破綻してしまうのです。

 

こうして、依存症が進行すると経済的に疲弊していき人間関係も崩壊、そんな結末を迎えるでしょう。

さらに苦しい事に、こうした結末の過程の中において「人間らしく生きれない」日々を送る事になってしまうのが依存症です。当人が自覚しているか無自覚なのかはさておき、人間らしく生きることが出来ない・・・これはとにかくつらい事だと思います。

 

こんな状態(人間)になってしまうのです。具体的に書いてみます。

とにかく、ギャンブル以外の事に興味が薄れてしまいます。天気が良ければ気分が良くなって、何かやりたい意欲が湧いてくるのが人間でしょう。でも、目の前にギャンブルが転がっていれば、ギャンブル行動が優先されてしまうのです。

あるいは、他人に対しての興味が薄れてきます。興味がないといえども、ギャンブルから離れている時、自分の周りの人について考える時間が必ずあると思うんです。あの人は面白いな、とか、良い人だな、今度飲みにでも行きたいな、遊んでみたいな、あるいは、あいつは嫌いだ、苦手だ、今後どういう付き合いをしていこうか、と頭を悩ますこともあるでしょう。こうした人間関係を考える作業は、生きていく上でとても大事なことだと思います。

ところがギャンブルに毒されていると、そうしたこと全てがどうでも良くなってしまうのです。大事にしようと思っている人がいても、ギャンブルが目の前に転がっていればギャンブルに熱中してしまうのです。あるいは嫌いな人や苦手な人のことを考える時間を作ったり、どう対応しようかと対策を練ったりすることも必要でしょう。こうした場合も、ギャンブルに逃げれば気持ちはスッキリするし、もうそんな嫌な人の事はどうでも良くなってしまうのです。こうした行動は、孤立という結果を生むのではないでしょうか。そしてこのような状態で、果たして人間らしく社会生活を送っていけるのでしょうか。私は確実に人間らしく生きていけないと思うんです。

こうしてギャンブル依存症が進行する過程においては、人間らしく生きていくことがままらないと思うのです。ギャンブル中心の生活をしていた自分を振り返ると、自分で自分を人間だとは思えないのです。

 

というわけで、ギャンブル依存は経済的な疲弊、人間関係の悪化を生むことは間違いありませんが、さらに、日々人間らしく生きることがままならない・・・。

目下、これが一番苦しい事だと感じるのです。「ギャンブルに生かされている」という表現がしっくりきます。もし当人が無自覚の場合は、修正もかけられません。こんなにも悲しい話はありません。

 

今の私はというと、「いったりきたり」しています。つまり、ギャンブルから離れられている時は、人間らしく生きていけています。でも、ひとたびギャンブルに熱中してしまうとまた元通りで、人間らしく生きれない日々が続いてしまうのです。

 

対策は考えました。

自分の半径1m以内の人間を大事にする、家族でもいい、親友でもいい。天気を感じる。心地よくなっている自分に気付いてあげる。そしてその感覚を大事にする。季節を感じる。誰かを誘って美味しいものを食べてみる。子供と触れ合う、老人と触れ合う。当たり前の事ですが、幸せなことだとつくづく感じます。

 

何かすれば変わるだろうというよりも、足元をきちっと見て、人間らしく生きることが大事と考えて記事にしてみました。

お読みいただきありがとうございました。

なぜ私は、ギャンブルを辞めるべきなのかと考えた結果。

今回は、私がギャンブルを辞めなければいけない理由を、自分自身の戒めの為にも書いてみようと思います。辞めなければいけない理由は、その人の環境によってさまざまだと思うのです。上手に向き合っている人もいるでしょう。ただ、今回の記事では私の場合に限って、私がなぜギャンブルを辞めるべきと考えているのかについて書いてみようと思います。すこし視野を広げてみて、思いつく限り書いてみます。

 

・時間とお金の無駄と考えている。

・生活費や貯金に充てる大事なお金を使ってしまう。

・やるべき事を後回しにしてしまう。(ギャンブルが第一優先になる)

・ギャンブルをすることで、周りに迷惑をかけている。

・負けて自己嫌悪に陥る。何もやる気が起こらなくなってしまう。

・勝つと余韻に浸り、ギャンブルをしている時間以外も、ギャンブルへ時間を使ってしまう(ギャンブル動画を見るとか)

・ギャンブルは社会や経済にとってマイナスな存在であり、貧しくなってしまうと考えている。

・将来に不安がある。このままやり続けていたら、どうしようもない人生に終始すると考えている。

・自分は重度の病気だから治療しないといけないと考えている。

・ギャンブルばかりしていた過去の自分を、いつも悔やんでしまう。

・他の事に興味が持てなくなってしまっている。

・世の中には大事なものが沢山転がっていると思う。でも、ギャンブルをしているとそれに気付けないと考えている。

・人に嘘をついている自分が嫌だ。(私がギャンブルをしているだなんて、周りの誰も思っていない。)

・所得をもっとあげたい。周りの人にお金を使える人間になりたい。

・ギャンブルを縛られている限り、私のミッションはいつも中途半端なままで、何とかしたい。

 

箇条書きにしてみました。こうして考えると、絶対に辞めなきゃいけないな、と改めて感じる事が出来ますね・・・。私の場合は、個人的にこれだけ辞めなければいけない理由が存在するのです。

でも、私の現実は辞める事が出来ていません。大人の私が、頭で分かっていても出来ないという事が異常で、やっぱり私の意思ではコントロールできない問題なのだなと実感します。やっぱり治療が必要です。

 

もし、あなたの周りに頻繁にギャンブルをしている依存症がいたとしたら、あいつはギャンブルが本当に好きなヤツだ、とか、あるいは本人の自由だからやらせてあげてたらいい、とか、ギャンブルばかりしてバカだなぁという印象を持っていると思います。周りからみてもギャンブルばかりしていると分かるような人は、周りの人が想像する以上に日常的にギャンブルをしている可能性が高いです。まずここがポイントだと思います。そういう人を24時間監視してみたら、ビックリされると思います。そして、そんな人は私のように苦しんでいる可能性が高いと思うのです。日本人の平均的な所得からいって、日常的にギャンブルが出来るほど、ギャンブルは甘い存在ではありません。これは、どんなギャンブルに対しても当てはまる事だと思います。これはもう一つのポイントだと思います。ギャンブルをよく知らない人は、ギャンブルがどれ程の経済的な損失をもたらすか、という事が分からないからです。

ギャンブル依存者は、周りへ金銭の要求が無い限りは無害な存在かもしれません。だから、基本的には放っておけばよい、というか放っておくしかないのかもしれません。でも、おそらく本人は苦しんでいて、そしていつか私のように弾けてしまう可能性だってあるのです。その時、金銭の要求が始まる可能性だって大いにあるのです。

このように、楽しそうにギャンブルの事をお話しているようでさえも、心の中では苦しんでいる可能性が高いと、私は思います。だからといって、本人に何かしてあげてほしい、というわけではありませんが、いかに辞めたいと思っているか、苦しんでいるかを少しでも想像してもらえたら幸いです。(まあでも楽しそうに話しているのに、想像できませんよね・・・。)

ギャンブル依存症の行く末は、「絶望、虚無、自殺願望、逮捕」などといった強烈なワードが襲い掛かってきます。私も逮捕以外は経験していますし、脅しているわけでもなんでもありません。

 

こうして、頭の中でギャンブルを辞めなければいけない理由が分かっていても、辞められない事はとても苦しい事だと思います。私のこうした事例が、少しでも誰かの参考になれば幸いです。もし周りの大切な人がギャンブルに縛られているなと感じたら、「またギャンブル話か」と呆れる気持ちを抑えて、少し踏み入んだお話をされてみれば、本人にとっては大きなキッカケになるかもしれません。ギャンブル依存の回復は、本人が依存症と自覚し、他者に本音を伝え始めることが出来た時がスタートだと、個人的には考えています。私は誰にもギャンブルをしていることを公言していませんでしたが、もし他者から何かアプローチがあれば、これだけ幸せな事はないのと思うのです。

ギャンブル依存のチャート(始まり~回復まで)

ギャンブル行動がどういう段階を経て依存へと向かうのか、そしてどう回復していくのか、それらをチャートになった資料を下記に貼ります。

これは、ギャンブル依存症についてYoutubeで発信されているNickさんという方が、ロバートカスター博士が作ったものを和訳した資料になります。これが凄く分かりやすいので、シェアしたいと思います。自分自身のことを当てはめてみても、大変腑に落ちる内容です。

図の中央下には、なかなか強烈な言葉が入ってきます。「絶望」「犯罪」「逮捕」「感情の崩壊」・・・自分自身は、犯罪や逮捕とは幸いにも無縁でしたが、絶望や感情の崩壊は経験しています。私のように依存症が進行していくと、こうした強烈な言葉に自分が当てはまってしまう可能性があります。ギャンブル依存症は「本人の意思の問題」だとか、「本人の甘え」だとか、「こうすればすぐに辞めれるのに」とか、なにせそういった類の言葉で片づけられる事も多いかと思います。でも、この図を見ると簡単に回復することが難しい、根が深い問題であることが少しでも分かって頂けるのではないでしょうか?

今の私について話します。両親にもギャンブルと借金について自白し、通院もはじめ、そして徐々に公言する人を増やしている状況です。つまり、助けを求め始めました。そして、ギャンブル依存症である現実、借金がある現実、生活が破綻しかけているという現実と向き合えています。つまり、このチャートの中では「臨界期」にいるのだと考えます。これが今の私の立ち位置です。

またこの臨界期に関して、以前私が書いた「自分自身がギャンブル依存症であることを認める大切さ」という記事と整合性があると感じました。

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次に、過去の自分自身を振り返ってみます。私は数年前にボランティアに参加しました。もちろん身近な場所で災害が起きたからではあるけど、ギャンブル中心の生活をしている自分にとっては何かきっかけになるかもしれない、という思いがあったのです。また、私は経験したことがないグループワークに、以前からとても期待していました。(今も期待していますが。)私と同じようにギャンブル依存に陥った相手と対話することで、相手の事を理解してみたい、自分の事を理解してもらいたい、という思いからです。自分自身で解決できない事が頭の中で分かっていたので、とにかく他者と私の関係、つまり社会性を取り戻し、そして磨いていく、それが解決方法になると考えていたのだと思います。

しかしながら、こうして私の過去の行動と表を対比してみると、私の考えがずいぶん飛躍してしまっていることに気付きます。つまり私は、図でいうところの「成長期」の事ばかりを考えていたし、今もなおそう考えている気がしてきます。「早くこの問題を解決したい」と常に考えていたし、考えているからこそ、だと思います。

私が行ったボランティアという行動は、一般的に良い行動だと思います。でも、その時の私は、臨界期にある「正直に助けを求める(自白する)」という行動や、「明確に考えてみる」という行動なんて、とても出来ていませんでした。自分にも他人にも嘘をついている状況だったのです。それらの解決をすっ飛ばし、「何か行動すれば変わるかも」と安易に思いやってみたのですが、結果的に私自身の行動は何も改善されませんでした。そして、私が期待しているグループワークも、途中で離脱する方が多いと聞きます。たぶん、途中でギャンブルをしてしまうからだろうと想像します。せっかく回復に向けて少しずつ積み上げていても、ギャンブル行動をしてしまえば、もうどうでもよくなってしまう、という感情の働きは想像に難くありません。回復に向けて、ステップアップしていく事が大事なのだと思います。

 

私自身、このチャートがものすごく腑に落ちました。徐々にステップを踏んでいく大切さにも改めて気づけたような気がしました。だからといってグループワークをしたい今の気持ちは変わりませんが、ギャンブル依存の治療は、一歩一歩であると改めて認識させられました。まずは目先の事からスタートしていく事が大事ですね。

武井壮さんの人生相談動画を見て考えたこと。

武井壮さんの人生相談動画を見ていたら、こんな人がいました。

 

www.youtube.com

 

(相談内容、原文ママ

37歳男です。

パワハラで仕事を辞め、実家に帰りましたが家族に受け入れられていない事に気づきました。学生時代の友人や仕事仲間にも心を許して話をできる人がおらず、だれ一人相談できる人がいません。誰からも愛されていない自分は死んだ方がいいかなって思っています。どうしたらよいでしょうか。

 

これに対しての武井壮さんの回答は、とても勉強になるので見られて損はないかと思います。

そしてここからはわたくしの勝手な解釈ですが、この方はもしかしたら私と同じギャンブル依存症なんじゃないかなと思ったんです。その理由を書いてみます。

 

・37歳、それまできちんと仕事をしていたのならば、ある程度貯蓄があり経済的な余裕があるはず。そもそも経済的な余裕があるならば、とりあえずは煙たがれる親と一緒にいる必要もない。でも、一緒にいないといけない事情がある。

・そもそも、パワハラを受け傷ついて帰ってきた息子を、煙たがる親っているのだろうか。確かに良い年をした独身のおじさんかもしれないけれど、事情が事情であれば煙たがるようなことはしないと感じる。

・「学生時代の友人」「仕事仲間」という言葉が出てきているあたり、普通に社会人生活を送れていた方だと思う。ではそんな人が、仕事以外、何をしてきていたのだろう。友人関係が希薄になるような、時間の過ごし方をしていたかもしれない。

・「だれ一人相談できる人がいない」と考えているという事は、まだ誰にも言えていない、隠れた秘密があると私には感じる。

・「誰からも愛されていない自分は、死んだ方がいいかなって思ってます」で締めくくられているが、この人の場合は「そもそも人に相談したいような悩ましい出来事があるはず」で、「その悩ましい出来事によって死にたい」と感じているのではないか。そして、過去の自分の行動により現在「誰にも相談できる人は自分にはいない」ことから、「誰にも愛されていない」と錯覚し、「死にたい」という感情に拍車をかけているのではないか。

 

というわけで要約すると、この方には、「隠れた相談=ギャンブル依存」があってとにかく誰かに助けを求めたい。にも関わらず、そんなことを相談できる相手すら、これまでの自分の生活で失った。また、借金もあり経済的な余裕もないので、親に助けを求めるしかない。でも、親からは借金の事もあって煙たがられている現状だ。もう自分はどうしようもないし、死ぬしかないと考えている。

 

これが私の勝手の解釈です。間違っている可能性も大いにあります。しかし、この方がギャンブル依存症だと仮定したとしても、わりと整合性が取れる相談内容だと思うのです。また、ギャンブル依存症は、その事実を人には言えない、言いたくないので他人へは秘密にしてしまう病気だと思います。たとえ会ったことのない芸能人に対してでも、それが匿名のネット上であるとしても、大事な秘密を自白できないことは不思議ではありません。

 

以上の事から、相談者は私と同じギャンブル依存症だと感じ取れたわけです。私は相談者とまさに同世代ですし、死にたいとよく思う部類の人間で、少なからず親和性を感じたことは事実です。つまり、この相談者がギャンブル依存症でもそうでなくても、ギャンブル依存症の末路は、この相談内容の方と近いものになってくると思うんですね。(私が今まさに体験していますから。)

こじつけのような感じもします。でも、この方がもしギャンブルとは無縁の方であったとしても、同じような状態に陥っているギャンブル依存症の方って沢山いると思うんです。と同時に、この方がギャンブル依存症なのであれば、「人様にはなかなか言えない」というギャンブル依存症の性質も、よく現われているなと感じました。