30代、ギャンブル依存症が書くブログ

20代で多くのものを失った。30代では全てを失う気がする。

「自分がギャンブル依存症であること」を認める大切さ。

こんばんは。絶賛体調不良で、こうなるとギャンブル欲も沸かず平穏な暮らしを送ることが出来ています。体調が悪いとギャンブルの事を考える時間も減ります。やっぱり、健康とは何物にも代えられないことを痛感します。

 

さて、今日は自分がギャンブル依存症と認めることが、とても大事ではないかと考え付いたので、記事を書いてみようと思います。

 

私は先週、人生初の精神科医にかかることになりました。両親に対しても、きちんとこの病院に行ってくるから、と報告しましたし、結果報告も行いました。また病院では、ケースワーカーの方や医師の方に、自分の事を話したり、ギャンブルや借金の経歴について語る機会も得ることが出来ました。彼らは決して、私の事を「依存症」だとは決めつけなかったと思うのですが(私が重度の依存症だと自覚していることを申告していたからかも)、こうして自分の言葉を相手に伝えていく事で、私自身が病気であることを再認識させられたんじゃないかと考えています。全てほかの誰かの手助けを借りながらですが、私自身で病気であると再認識する事が、好循環を生んでいくような気がしているのです。

 

ところで、ギャンブル生活が進んでいく人生の中で何度か、ここが私の「底」なんだろうなと思った出来事がありました。

 

例えば、「親に大金を肩代わりしてもらった時」「肩代わりしてもらったのに、また借り入れをしてしまい、それがバレた時」「電気、ガスが止まった時」「携帯が止まった時」等々。金銭的な援助を得ることで乗り切らせてもらうわけです。

(こちらにその時の詳細を書きました)

gamble0601.hatenablog.com

そしてその時は深く内省し、まるで再スタートを切れたように錯覚します。

『ここが私の「底」だ。まだまだここからだ、やるしかない、リスタートだ。』

でも、それらはすぐに更新されることになり、まだ私には底があるのか、と打ちひしがれます。そして、いよいよ全てを失うことになると感じ始めました。全てを失ったところが「底」だと仮定しても、資金があればまだギャンブルを続けていそうな気もして怖いです。つまり、全てを失っても「底」には成りえない可能性すらあると感じます。

 

そんな底ナシ沼のギャンブル依存症に対して、「いかに自分自身がギャンブル依存症である事を認めることが出来るか」 これが、同じ過ちを繰り返さない為のポイント、つまり自分自身の「底」になるのではないか、と考えてみることにしたんですね。

 

そもそも、「自分がギャンブル依存症である」とどれだけ心の中で思っていても、それを他の誰かの前で口に出すことは容易ではありません。私の場合も、わずかながらプライドがありましたし、そんな情けない事を他人様に言えないと考えていました。きちんと完済し、墓場まで持っていくのだと思ったことがあります。でも、ギャンブル依存症がどんどんと進行していくと、ほかのだれかに全てを言わざるを得ない状況が、いつか必ず私のようにやってくるのだと思うのです。ここがターニングポイントです。

 

私は依存症になってから、もうずいぶん年月が経つのだと思いますし「私は重度のギャンブル依存症なのだ」と頭の中で認め始めてからも、ずいぶんと年月が経つのだと思います。でも、そうして認めていた事実が、どこか現実味がないような感覚でしたし、少し認めたくないような気もしていていました。というより、私自身が依存症であろうとなかろうと、気が付けばそんな事はどうでも良くなっていたような時が多かったかもしれません。ギャンブルの事を考えていたり、ギャンブルをしている時は特に、私が依存症だと認めていようと認めていまいと、そんな事はどうでも良かったんですね。現実逃避していたという表現が正しいのかもしれません。とかくそんな状態だったと感じます。

 

でも、人様へ自白した瞬間に本当の意味で「自分がギャンブル依存症であることを認めざるを得ない」状況になるのだと思います。私はそこから、病院に行くきっかけを得ることが出来ました。病院に行けば、自分が病気であることを再認識させられました。誰がどうみても、まるで自分自身がギャンブル依存症である事を認めざるを得ない状況です。

 

こうして私は、両親に始まり、精神福祉保健センターのお電話口の方、ケースワーカーの方、医師の方と、徐々に自白する相手が増えていきました。世の中で私が重度のギャンブル依存症だと知っているのは、最近までは私ただ一人しかいませんでした。これもとかく苦しくて、そこから解放されたことも大きいのかもしれません。調子のよい奴だと思われても仕方ありませんが、今となれば親しい友人にも言いたい、と感じることがあります。

今の私は、他のだれかに公言することこそが、「自分自身がギャンブル依存症だと認める」第一歩なのではないか?と考えるようになりました。「俺って重度のギャンブル依存症なのだろうな、クズだな。」と無駄な自己嫌悪を繰り返していましたが、とかく公言してみることが大事なのではないか?とそう考えられるようになりました。自分にとって重たい言葉を人に投げかける行動が、いかに大それた事かを知りました。その時の緊張感は、これまでの人生であまり経験した事がありません。伝える相手によっては、涙もあふれるかもしれません。そして、そんなに重たい言葉を受け止めて頂くことで、ギャンブルをしている時にはまるで感じられない、人のありがたみや優しさにも触れることが出来ました。こうしたプロセスの中で、内省や後悔の念も改めて湧き出てきましたし、これも良い循環のように思えたのです。

 

以上、私はこのように、自分自身が依存症であると、本当の意味で認めらることこそがスタート時点であって、自分自身の底になるのだと考えました。病気だから、と開き直るという意味ではありません。病気なので治療しないといけないんです。だから、病院に行くとかでも良いし、他の誰かに言う作業を増やしてみるでも良い、もしかしたらこうしてブログを書く、とかでも良いのかもしれません、とにかくそれが治療につながるかもしれません。何度も言いますが、自分自身で病気であることを認める事が、第一歩になるのだと強く感じています。

 

というわけで今回は、「他のだれかに自分がギャンブル依存症だと自白すること」=「自分自身がギャンブル依存症であると認めること」が、どれ程大事なのか私の実体験を通してお伝えできればと思い、記事にしました。

 

最後に、私は自分自身をギャンブル依存症だと、本当の意味で認めることが出来た現在が「底」なのであろう、と感じています。でも、確信できているわけではありません。何度も底をぶち抜かれてきた経緯があります。こんなにも自信満々に語っておいて、結局は半信半疑なのです。でも、今回は少しくらいの手ごたえを感じている事も事実なのです。