少し変わりつつある近況。
おかげ様でここ最近、精神的にも経済的にも安定した生活を送る事ができています。
おそらく、やるべき事を後回しにする癖が少しずつ解消されていて、それによって安定している感覚があるのだと思います。あえて言葉にするのもお恥ずかしいですが、洗濯物や洗い物を溜めなかったり、人に対してあいまいにせず意思表示をきちっとしたり。そんな小さな事ですら守ってこれなかった人生です。やるべき事は完全にすべて後回しだったから、小さな改善ですら自分とっては良い影響を与えているのだと思います。
こうした少し変わりつつある状況の理由は、「ギャンブルをする時間が極端に減った」という事ももちろんですが、「返済計画と目標をたてられたこと」が大きいのだと思います。今日はちょうど月末ですが、支払いのほとんどをすでに完了させる事ができて居います。お恥ずかしいですが、こうした状況ですら久しぶりです。支払い、特に借金の返済は自分にとってかなり億劫な存在で、くわえて返済資金をギャンブルに充てていた事もあって、数日間~一か月ほど遅延する事も多かったです。本当にお恥ずかしいですが・・・。
とにかく、良い循環をコツコツ積み上げられるように、日々努力していきます。次回のグループワークは再来週です。そちらの方にも参加していこうと考えています。
そうした日々を送る中、ギャンブルは何度かやってしまいました。ただ、両親に対しての罪悪感、私自身の手持ち資金の制約もあってか、以前のように際限なくのめりこんでしまうようなやり方は出来なくなりました。とはいえ、経済的な影響を最小限にしていると言えども、勿論これで良いとも思っていません。ギャンブルに一ミリも近付きたくないと常に考えていますし、油断もまだまだ禁物だと思っています。
財布の中に二万円の手持ち資金が入ったことが引き金となった、先日のギャンブル行動について少し書いておきます。
ここ最近の話ですが、会社関連の研修出張なるものに行ってきました。そして、母親からお土産代やお付き合い代として、現金三万円を預かる事になりました。(私の給料からです。)
最近の私は気がどうにかしていてしまったのか、この三万円のうち、使う必要のない事にはなるべく使わずにいて、少しでもお金を残しておきたいと考える事ができていたのです。浮いたお金でギャンブルしたかったわけではなく、いや、正確にはそんな事もすこし脳裏によぎりましたが・・・、頭の中の半分以上は「お金を少しでも貯めよう」という考えになっていたのです。
そしてこの出張の間で、夜の付き合いをほどほどに済ませる事で、三万円のうち一万円を浮かす事に成功しました。この時点で私の財布の中には一万円の余剰資金。次に、私の大事な祖母にお土産を渡した際、なぜか一万円をお小遣いとしてもらう事になってしまいました。
こうして私の財布には、二万円の手持ち資金が投入されている状態の完成です。例のごとく欲望に負け、ギャンブル行動を行ってほとんどのお金を失いました。
ギャンブルをした後はやはり、後悔や苛立ちから構成されているヤツが襲ってきました。これも例のごとくです。お金を溜めようと考えられていた自分自身や、母親、祖母を裏切るような感覚に陥りました。「もう絶対にしない」「ギャンブルなんてもうしたくない」と改めて強く思う反面、お金を失ってから何度も考えてきたこの思いは、どこか形骸化した、無意味なものにも思えてきました。
ただ、借金をきちんと返済していっていること、最近の少しずつ生活が変化している手ごたえ、そうしたものが私の緩衝材になってくれたのか、今回はそこまで自己嫌悪を繰り返すことは免れました。こうしてあまり落ち込まないようにする事も、実は大事なのかもしれません。
今回の経験は、開き直りとはまた違ったもの、ギャンブルに対して自分が考える負の感情の中では、どこか目新しいモノだった気がしています。
すこしずつ変わりつつある生活、そしてギャンブルと向きあう自分の状況。日々、一歩一歩進歩させていけるよう、頑張りたいと思います。
「どんな時にギャンブルをしたいと思いますか?」という質問。
数か月前、人生で初めて精神科医を受診した時、「どんな時にギャンブルをしたいと思いますか?」という質問を先生から投げかけられました。この質問は、依存症用語で「トリガー(引き金)」と呼ばれるものを探る質問だと思います。シンプルな質問ですが、私はそのシンプルな質問を正確に答えることが出来なかったのです。
現に私の回答は、「ギャンブルなんてしたいと思ってしてません。」と揚げ足を取っているかのような、まるでギャンブル自体に責任があると受け止められるような、先生を困らせるような言葉だったのです。
この記事では、ギャンブル依存症の私がなぜそう答えたのか、改めて自分自身を振り返ってみようと思います。
さて、先生に向けて私の口から次の出た言葉は、
「ここ数年間はとくに、ギャンブルなんてしたくなかったです。」
という言葉です。私はギャンブルに対していつもネガティブな感情を持っているのにも関わらず、ギャンブルをスタートさせていました。(正確にいうと、スタートさせていたと「思っていた」ですが。)
ギャンブルに対してのネガティブな感情の中身はこのような感じです。
「どうせ負けるし行きたくない」
「またお金が無くなるんだよな」
「やるしかない」
「ギャンブルなんて本当はなくなれば良いのに」
・・・そんな事を頭の中で考えながらも、次の瞬間には息をするようにギャンブルをしていました。そうしていざギャンブルをしてしまえば、それなりに一喜一憂する事になるという、まさにギャンブルに生かされている状態だったのです。
こうしたギャンブルの結果の多くは、当然ながら経済的な損失を負う事になり、はらわたが煮えくり返るような負の感情を抱く事になります。次に来るのは自己嫌悪なのですが、それでも、取り返すためにはギャンブルをしなければいけない、というループに陥ります。こうして、基本的に毎日が苦しかった記憶が蘇ります。ギャンブルをやり始めた頃とは打って変わって、特にここ数年はそんな苦しい状況の中でギャンブルをしていたのです。
この理由は今考えればシンプルで、借金の問題が自分の中で深刻化していたからです。そして深刻化した借金についての問題を、いつも自分の中でかき消す作業に忙殺されていて、その作業の一部がまさにギャンブル行動だったこと、これもまた事実です。
さて、こうした先生への答えは決して、先生を困らせてやろうとかギャンブルに対しての当てつけのような感覚を持って答えたのではありません(当てつけは少しあったかもしれないですが・・・。)先生からの質問に対して、心の底から素直に出てきたものだったと記憶しています。そしてこれは、自己主張がそんなに得意ではない私にとっての、一種のSOSだったことに気が付きました。
「ギャンブルをする時、気分とかそういうものには左右されていません。」
「私は息を吸うようにギャンブルをしていました。」
「私は完全に依存症という病気です。助けて下さい。」
「ギャンブルは私を支配していて、何とかしたいし何とかしてほしいです。」
「一刻も早く病気を治したい、だから病院にきているんです。」
これらが私が先生に向けて発信したSOSの主な中身です。実際に口にしたわけではありませんが、今となればとんちな回答をした私の言葉の真意は、おそらくこうだったのだと振り返ることが出来ました。
こうして私は、先生との会話を正常に出来ていなかったわけなのですが、先生の聞いた「どんな時にギャンブルをしたいのか?」というトリガーを探る質問は、私にとってとても重要でした。これは当然で、ある行動を辞めようとしているのに、自分がなぜその行動をするかを知っていなければ、対処しようもありません。私はといえば、単に先生へSOSを発していただけで、これでは解決には向かわないのは明白です。
遠回りはしましたが、こうした事に気付いてからトリガーを探るため、自己内省しました。そこから出てきた私の主なトリガーはこれです。
「まとまったお金が財布に入っている時」
「父親と上手く折りわなかった時」
「借金の返済の現実を考えた時」
「Youtubeでギャンブル系の動画を見た時」
主にこの4つです。これらは、ギャンブル依存症者にとってはよくある答えだと思います。このよくある答えですが、私自身で自覚する作業がとても重要だったと気付きます。こうしたトリガーがいかに私をギャンブル行動に導くか。何となく自覚するのではなくて、自分の敗因としてキッチリ受け止めて自覚する事が大切だったのです。
早く治したいという焦り、病院にまで行っているのだから何とかして欲しいという強い願い、こうした類の感情が合わさって、トリガーを探る重要な質問の意味を、私自身の手によって霞めてしまっていたのです。
―グループワークにて、「ギャンブルをしないデメリットは何でしょう?」という質問がありました。これはまさに、自分自身のギャンブル行動=現実にきちんと対峙していなければ答えが出づらい質問です。私はこの質問に対して、ギャンブルなんて私にとって100%の悪魔なのだから、「そんなものはあるわけが無いだろう」と考え、答えていました。
しかし、自分自身の行動を振り返り、ギャンブルをしていない時の自分を想像してみると
「日々、退屈に思う」
「(親に資金管理をしてもらっている事から)資金の制約がある事を自分自身がよく分かっているので、、ギャンブルが出来ない未来を想像すると日々つまらないと感じてしまう」
という答えが浮かびあがりました。
こうして、ギャンブルをしないデメリットすら私にとって存在していたのです。―
病院に受診しようと思うくらい、自分が依存症者かもしれないと考えている人であれば、ギャンブルをする自分自身、またはギャンブルという存在そのものに対して、良い感情を持っていることは少ないはずです。むしろ、趣味嗜好を超え生活に浸食してくる悪魔のような存在、と考えている人の方が多いはずです。
まったく同じように、病院に初めて受診した頃の私は、ギャンブルの事をひたすらに悪魔のような存在だと考えていました。悪魔のような存在になぜ負けるのか、なぜ逃げられないのかあるいは戦えないのか、そうした考えが頭の中をぐるぐる回り、自己嫌悪を繰り返し、すっかり心が打ちひしがれている状態でした。そしてこうした感情が私の中の冷静さや自覚する力を消し去って、シンプルな質問に答える事すら困難にさせていたのです。その結果は先ほども書いた通り、単にSOSを発することでした。
こうした流れを踏み遠回りをしてしまいましたが、私は自分自身のトリガーを自覚する作業がとても大切だった、ということに気付きました。
私にとってギャンブル依存は、「何かやってみれば変わる事ができる」では到底回復できない病気だったのです。病院を行く決断をし、先生にSOSを出してみたところで、病気が治るわけがなかった・・・「病院に行けば治るかも」「ブログを書けば治るかも」「ギャンブルともっと向かえば治るかも」・・・色々とやってみたものの、ギャンブルの前ではいつでも無力でした。
翻ってトリガーを自覚することは、原因を断つ努力へと繋がります。私の場合は、現金をなるべく持たないようにして、ギャンブルに近付かない工夫をする事ができます。借金は毎月いくら必要か、現金でいくら用意しておけばよいのか、きちんと計算する必要性も出てきます。そもそも借金の返済を引き落としにしていれば、現金を物理的に所有する可能性も低くなることにも気づきます。私は、自分の中にあるトリガーを自覚し、一つ一つ地道に生活改善をしていくこと、これこそが実は一番近い道なのだと考えを改めることとなりました。
今回の記事では、「どんな時にギャンブルをしたいと思いますか?」という簡単な答えすらまともに答えられなかった、私の反省文でもあります。ギャンブル依存症の回復は、私にとっては「何かやってみれば変わる」では出来ませんでした。一つ一つの原因を探り、対処法を見つけ、対処法を実行することでしか不可能だったのです。取り組むための姿勢を保ち日々、進展を感じることで一歩一歩進んでいきます。
こうした私の心の中の進展は、良い影響を私自身に与えてくれているような気がしています。ここ一か月以内で「目の前の小さなことを、とにかく大事にしていこう」と日々感じるようになりました。周りにいる人を中心に、小銭でも、掃除でも、洗濯でも洗い物でも、なにか打ち立てた小さな目標でも、とにかくなんでも良いから目は逸らさず、一つ一つを大事に向き合おうとしてきました。
こうした全ての行動がギャンブル依存症の回復に繋がるわけではありませんが、ギャンブル優先で生きてきた人生を少しずつ変化させていきたいのです。そんな日々を積み上げていく行動は、トリガーと向き合う私の姿勢と共鳴してくれるのだと信じているのです。
これがギャンブル依存症者が感じている苦しみです。
今回の記事では、ギャンブル依存症者が感じてしまう苦しみについて書いていこうと思います。ギャンブル依存症については、多くの誤解があると感じざるを得ません。理解されていないというより、誤解されている部分が沢山あると思うのです。私自身、それは一般的な感覚からすれば仕方ないと思う一方で、その誤解が依存症という病気の発見や治療を妨げているとしたら、それは問題だとも考えています。
特に、もしも誰かにとって大切な人が依存症が疑われる場合、そうした誤解から人間性を疑う事に繋がったり、ある種の諦めに繋がるような事だけは避けて欲しいのです。
依存症の私自身、そうした悲劇が起こって欲しくありませんし、一人でも多くの依存症が救われるべきだと感じます。少しでもこの記事が参考になればと思います。
私は最近’X’(旧Twitter)をよく見るようになりました。
ギャンブル禁止を掲げるユーザーさんの言葉がめちゃめちゃ励みになるし、ギャンブル依存症について真正面から考え、役立つ情報を発信していたり、中にはYotube活動をしておられる方もいらっしゃいます。Xについては使い方により良くも悪くもなりそうなものなのですが、こと依存症に悩む人たちのやり取りを見ていると、すごく良い空間に満ち溢れていると感じます。自分もなるべくネガティブな言葉を投げないよう、なにかとツイートしている次第です。
その中でも、ギャンブル依存症について誤解や偏見を持つ言葉もそれなりに見かけます。私自身、それを見て一喜一憂するわけではなくて、むしろ理解されなくて当たり前という感情すら少しあるのですが、先日気になった言葉があったので抜粋してみます。
「ギャンブル依存症について、ものや人といった他者のせいにすると依存する。悪いのはあくまで依存症当事者。とにかく悪いのはあなた。ものや人のせいにしたらいけないよ。」
(私がすこし要約しています。)
私には心当たりがあります。
「パチンコ台のせいにする、パチンコ屋のせいにする、パチンコ屋の店員のせいにする、周りで打っている人のせいにする、騎手のせいにする、新聞のせいにする」などなど。
私にとってはむしろ、負けた場合の常套句です。こうやって他者のせいにすることは、重度の依存症となった今の私ですらあります。そうして自分の中のイライラした感情が抑えきれなくなり、叫びたくなるような状況になるのです。というか車で何度も叫んだこともあります。
でも、私はこうした姿が依存症者の本当の姿を現しているとは考えません。
ここからは、むしろ世の中の大多数の人が賛同しそうなこのツイートが、なぜ間違いであるかを書いていきます。
誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり、あるいは社会のせいにしたり、といった事は、ある程度ギャンブルをする人にとって身近な行動と言えるでしょう。特に、負けが込んでいる状況であるとそうした行動に拍車をかけるでしょう。分かりやすいのがGoogleの口コミです。例えば近くのパチンコ屋さんの名前を検索すれば、八つ当たりともとれるこうした行動に、すぐに触れ合う事ができるでしょう。
こうして依存症者に限らず、ギャンブルに頻繁に触れ合う多くの人はこうした感情を抱く事は想像に難くないと思います。
ただ、こうした感情の動きはただの一過性のものに過ぎません。依存症者にとっては特にそうなのです。
なぜなら、すぐに強烈な自己嫌悪が襲ってくるからです。「またギャンブルでお金を使ってしまった」「また時間をお金を無駄にした」「なんでギャンブルを辞められないのだろう」「使ってはいけないお金だったのに、何で使ってしまったのだろう」「本当に自分はクズだ」 何度も何度もそうやって考えてしまうのです。本当に何度も何度も、何度もです。悔しくて、情けなくて、最終的にはいつも自分を責めてしまうのです。
経済的な環境によっては、もっと悲惨な場合もあるでしょう。つまり、こんな自分はもう死ぬしかないとか、犯罪でもするしかない、といった飛躍した考えに至るケースもあるでしょう。
そしてこれらの事がまさに、ギャンブル依存症者が感じる苦しみだと思うのです。パチンコ台やパチンコ屋さん、パチンコ屋さんの店員や下手をこいた騎手にいら立つ感情は誰にでもあります。でも、そんな事はどうでも良く、自分自身に苦しんでいる事が大きな問題であると思うのです。
そうした人を目の前にして「人のせいにしているあなたが悪いのです」と言えるでしょうか?悪いことは百も承知していて、その上で自分自身を責め続けているのです。
―「ギャンブル依存症は本人の責任か?」という設問に対して、「そう思う」「強くそう思う」の割合がとても高かった、というのはある国民調査の結果です。依存症の私自身、「そう思う」にチェックをいれるでしょう。―
ギャンブル依存症者は、見た目も普通であるし、仕事も普通にしているし、とにかく普通を装う方も多いです。そして、ことギャンブルに関して口から出る言葉には、ウソも混じってくることもあります。
「ギャンブルばかりするし、ギャンブルの悪口ばかりよく言っているヤツ」「ウソをついているヤツ」・・・こうしたギャンブル好きは沢山いると思います。そして、周りの人の多くはここでブレーキをかけてしまう事になるでしょう・・・。私はそうした状況が普通だとも考えています。依存症者自身が誤解されても仕方ないような言動を取っている可能性があることもまた事実です。
何度も書きますが、「ギャンブルに溺れているなんて情けない」という感覚が至って普通です。そもそも、それが世間というものであるし、依存症当事者の私自身もそれを受け入れています。
でも、もしあなたの近くに依存症者と疑われる方がいらっしゃるのであれば、表面的な部分より先に、少しでも踏み込んでみて欲しい、という思いが私にはあります。相手が大事なひとであればあるほど、すこしだけ踏み込んでみて欲しいのです。本当の意味で苦しんでいる可能性がある事を、少しでも疑ってみて欲しいのです。
(以前書いた私の記事です。ギャンブル狂いの人は、本当の意味で苦しんでいる可能性が高いと私は考えています。)
ギャンブル依存症は、台や店、騎手に対して苦しむ病気ではありません。むしろ、自分自身に苦しむ病気なのだと私は考えています。こうした誤解が少しでも解けると同時に、だれかにとって大切な人が一人でも救われて欲しいという思いです。
この記事が少しでも多くの人に、参考になる事を祈っています。
私の借金と返済計画
今回の記事では、私の借金についてまとめていこうと思います。一般的なサラリーマンが十数年間、いつもギャンブルに打ち込んできた結果です。私にとっては厳しい現実ですが、前を向いて頑張っていこうと思っています。真のクズだな、と思いながら見て頂ければ幸いです。
私は20代半ば~30代半ばまでの約十年間で、300万円以上の借金をしています。それとは別に、催促が来た際に両親から肩代わりしてもらった借金もあります。両親に対しての負債は500万円程度です。
そして、最近になってようやく一つ一つの借金に対して整理を付けてみる事にしました。
両親に対して私がギャンブル狂いであると自白したのは昨年末です。ブログを始めたのは今年の6月・・・。そこから今日まで、病院に行ってみたり、ギャンブルについて本を読んでみたり、決意してみたり、でもギャンブルをしてみたり・・・。紆余曲折、色んな行動をしてきました。ギャンブルに対して向き合う時間を、それなりに作ってこれたとはいいつつも、この期に及んでも借金の整理、返済計画からは目を背けていました。消費者金融から借りているお金に関しては、何となく残高を把握しているだけで、一体いつまで返済を続けるのかも分からない状態。そして、両親からの借金については、申し訳ないという気持ちを感じるだけで、一体いくら借りたのかを考えたくもありませんでした。本当に親不孝者です。
このままではいけないという思いが沸き上がり、まずは法テラスや債務者無料相談のようなところに電話をかけ続けました。それぞれ大変親身になって相談にのってくれました。そして、様々なアドバイスを頂きつつも、債務整理や自己破産は無理だと理解しました。背負った借金を地道に返していかねばならない、現実から目を向けてはいけないという認識に、徐々に変わっていきました。そしてようやく、返済計画を立てる事ができました。
というわけで、下記に私自身の記録として借金額と返済計画を記しておきます。
- A社・・・残り元金15万 10,000円/月 (15か月で返済)
- B社・・・残り元金100万 20,000円/月 (5年で返済)
- C社・・・残り元金90万 35,000円/月(32か月で返済)
- D社・・・残り元金50万 20,000円/月(32か月で返済)
- クレカA社 残り22万 15,000円/月(15か月で返済)
- クレカB社 残り24万 両親が一括返済 ←分割で3万返済(8か月)
月に13万円、給料から返済していく事となりました。まずは今の私が、返済して自走できる状態と把握できたことが、自分の中では大きいです。少しだけですが、ホッとした気持ちも沸き上がりました。反面、もっと早く現実を見れていてさえすれば、もっと余力を残した状態で自走が出来ていたのに、という後悔もあります。早ければ早いほうが良いに決まっていました。
返済計画のうち、一番長くかかる債務で5年です。正常な状態になるまで、まだまだ時間はかかります。しかし、長い人生ですので途方に暮れる必要はない、というのが今の正直に感情です。前向きです。
とはいえ、毎日悔しい感情が沢山起こります。ギャンブルに関係ない事でも、自分の非力さに落ち込むこともあります。これらは、私がギャンブルばかり熱中してきた私の人生による因果応報です。でも、それらは認めつつ、目の前の支払い、目の前の人、友達、家族、良い事、悪い事、、、とにかく目の前の一つ一つを大事にして、改めて頑張っていこうと思っています。
そして親への借金、500万円程は今返す目処は経っていませんが、必ず恩返し、いつか返すぞという心づもりをしています。頑張ります。ギャンブルなんてしている時間とお金は、私にはもう存在しません。
ギャンブル依存症かな?と思われる方へ。
最近の気付き(結局ギャンブルを継続しています)
最近の自分自身の思考はこれです。
「ブログを綴っていけば治る。」
「病院に行けば治る。」
「グループワークをしてみれば治る。」
「ギャンブル・ギャンブル依存についての知恵を付ければ、バカらしくなって治る。」
そんな風な考えが先行している状態の中で、「ギャンブルなんてするものか!」という強い意志を忘れ去っていて、結局ギャンブルをしてしまう。そしていつも通りギャンブルに負け、打ちひしがれてしまう。本末転倒とはこのことで、結局ギャンブルをし続けていたし、状況も少しずつ悪化しているような気がします。
私の場合、ギャンブルに限らず「何か動けば変わるだろう」という衝動的なタイプで、とにかく色々やってみる事に価値があると考えていました。(このブログもそうです)
その結果として、ギャンブル依存を乗り超えてやろうと思っていたんですね。
でも、そんな事で治すのは無理ですよね。
少し考えれば分かる事なのに、つくづく自分はバカなのだと思います。
ギャンブル依存症は「意思の問題では治らない病気」と言われますが、やはり先立つものは絶対に辞めて克服してやるんだ、という「強い意志」「立志」だと改めて思います。現実を見てもやっぱり逃げたくなるし、誰かに自白したとしてもただスタートラインに立ったというだけ。ましてや資金のサポートでもあろうものなら、逆走する可能性だってあるのだと思います。
結局は、ギャンブルを強い意思で断ち、日々人間らしく生きていきる中で、万が一スリップしてしまった時には正直に反省する、これで良いのだと思います。シンプルです。辞め続ける過程で治療を進めていくのであって、治療をして治るわけではないんですね。
私がこうして気付きを得られたのは、Twitterで「禁ギャンブル〇〇日目」とカウントダウンしている方をよく見かけるからだと思います。やっぱり意思、志が大事なのだと改めて考えさせられることになりました。日々精進です。
さて、ここ最近の私はギャンブル・ギャンブル依存についてそれなりに調べることができました。これらは、またブログ等でアウトプットしていこうと思っています。また、自分自身ずっと心待ちにしていたグループワークもいよいよ始まりそうです。そして、紹介状を書いて頂いた、次の病院での受診も今月中に始まります。
行動してみる事は決して悪い事ではないはず。繰り返しにはなるけれど、そうしたプロセスに入った時に、辞めるんだ、という意思を持ち続けることが大事になると考えました。ギャンブルを断てるよう、一つ一つ頑張っていきたいと思います。
Twitter始めました。
「ギャンブル依存症」という本を読んで。
田中紀子さん著書の「ギャンブル依存症」という新書を読みました。
全体的な感想として、ギャンブル依存症当人とってとにかく勇気づけられる本だと思いました。「いつか治る」「治さなければいけない病気なのだ」と搔き立てられる良い本です。
本書を章ごとに区切って、私なりに紹介していきます。
第一章では、ギャンブル依存症がどういった病気なのか、いかに身近であるかという事が書かれています。ギャンブル依存症はいまや、成人の約20人に1人と言われていて、いかにギャンブル問題が深刻なのか、という事が述べられています。また、そもそもギャンブル依存症がどういった病気であるかを整理されています。本書に書かれている、ギャンブル依存症と定義される人の特徴がそのままの私で、立派なギャンブル依存症なのだと改めて認識する事になりました。
第二章では、日本で起こった犯罪が10件程掲載されています。いずれもギャンブル依存に端を発した犯罪です。もちろん、犯罪行為は決して許されるわけではありませんが、ギャンブル依存症者として、犯人の心情を少し理解することはできました。私自身、当然ながら犯罪なんて無縁だと考えてます。でも、このままギャンブル依存症の人生を歩んでいけば、いつどうなるか分からないという危機感を持ちました。今は独り身な私で、基本的に自分の資金の事だけを考えれば良い身です。でも、両親は私よりも先に死にます。兄弟や兄弟家族との関係も、色々と変わってくるかもしれません。もしかしたら、こんな私でも結婚して家族を持ちたいと思うかもしれません。色んな人間関係の変化をしていく中で、今のままギャンブル依存を背負っていると、どんな悪影響に波及していくか想像できない部分もあります。恐怖です。
そういえば少し前に、ギャンブルに負けた腹いせで車が歩行者に突っ込んだ、という事件がありました。犯人は、20代の若者でした。犯罪行為に対して同情の余地はないのかもしれませんが、心情を一部理解する事ができます。一言で言えば報道された通り、「負けた腹いせ」になるのでしょうが、自身の借金問題やギャンブルに対する社会への深い恨みが募った結果なのだと思います。そうした痛みは、私自身も犯人と同じように感じている部分かもしれません。
第三章では、ギャンブルがこんなにも身近な日本において、国内のギャンブル依存症対策がいかに脆弱であるか書かれています。精神科医の対応や受け入れ機関等の問題に代表されるように、ギャンブル依存症に対しての、社会全体の認識の甘さが詳細に記されています。
第四章では、「ギャンブル依存症」という病気がどんな病気であるのか、そして周りにいる人たちはどう向き合えば良いのかについて、詳しく書かれています。
依存症というのは周りのサポートがないと、回復が難しい病気であることを痛感させられました。また、そのサポートの方法論も重要であることが記されています。
以上、大まかに紹介してみました。
日本社会に点在しているギャンブル、そしてギャンブル依存症問題の全体像を明瞭に把握できるため、ギャンブル依存症について考える際に役立つと思います。
上述しましたが、ギャンブルにまつわる犯罪がいくつか紹介されており、これらは大変参考になるものでした(と同時にショッキングでもありましたが・・・)
私もこの先、きっかけ一つかもしれないな、と危機感を持つ事例もありました。明日は我が身、という感覚です。
依存症当事者にとっても、その家族に方にとっても大変参考になる内容です。ギャンブル依存症を知るにはまず、読んでいただきたい本です。